私の願い。(広島・長崎原爆の日に思う。)
私たち日本人は、宗教を持たないと外国人に言われたり、自分でもそう思ったりしています。もちろん、神道や仏教、あるいはキリスト教や諸宗教の信者や信徒はそうではありません。
大多数の日本人は明確な宗教意識を持っていないと見られているのです。その反面、私たちは先祖を供養し、亡き人を弔ってきました。
そして結婚式(キリスト教の教会で結婚式を行う人、そしてクリスマスを祝う人も多くなってきています。)や成人式などを神前で行い、また初詣や祭日に神社に参ります。
かつて冠婚葬祭などの一生儀礼や元旦や歳末、節句や七夕やお盆などの年中行事が形を変えながらも現在に引き継がれているのです。それらを通して、目に見えない、何かを感じ信じているのが、私たち日本人なのではないでしょうか。(無自覚の宗教観といえるかもしれません。)
日本に教義を持った宗教、仏教がつたえられたのは奈良時代、それによってわが国の神道も形を整えたと言えます。寺院にならった神社の建立はそのひとつです。神道と仏教は時に対立し、時に共存しながら、長い年月をかけて、この国に大きい位置を占めてきました。近世紀には切支丹排除のために宗派が厳しく定められ、近代には氏神が決められました。そのような神道や仏教は、私たち日本人の暮らし方やものの見方や感じ方のもととなってきました。これを翻訳語の「宗敬」と呼ぶには違和感があります。そこまで言い切れないのが日本人の心情といえるのではないでしょうか。あえて言えば、「生活宗教」「風土としての宗教(風土宗教)」とも称するものが、私たちと神や仏など見えざる存在との関係です。私たち日本人のこころには神も仏も存在しているのです。
この四季の変化に富んだ国土において、私たちを取り巻く自然は、さまざまな恩恵をもたらすと共に、避けがたい災禍を引き起こしてきました。そのような自然の猛威にさらされながら、私たち日本人は天地自然を畏怖畏敬し、その背後に、人の力を越えた大いなる何かを感じ取ってきたのです。
わが国の国土は、唯一絶対なる神の創造によるのではなく、天つ神と国つ神の造営になったものです。神々は天地自然を造り、山や森に鎮まっているのです。そして仏もまた山野に宿っているのです。
自然において神と仏は共存しています。私たちは自然と和み、四季と和むことによって、神と和み、人と和んできたのです。
自然が荒廃し、災害が多発するこの時代、私たち日本人の自然を畏れ、神仏を敬う心を改めて蘇らせたい。そして「和み」の心をもとに、「ともいき」・「ともうみ」・「ともさち」を旨として生きることをしたい(ジャパネスク)、と願っています。この「ジャパネスク」の運動が日本の隅々まで浸透し、やがて、世界へ広がっていくことを期待しています。
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